大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

京都地方裁判所 昭和52年(ワ)1749号 判決

原告 井上和男

同 井上恵美子

右訴訟代理人弁護士 神田靖司

同 大塚明

被告 京都市

右代表者市長 船橋求己

右訴訟代理人弁護士 納富義光

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

(請求の趣旨)

1  被告は原告らに対し、各金一、一五九万一、九一九円及びこれに対する昭和五一年七月二九日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

(請求の趣旨に対する答弁)

主文同旨

《以下事実省略》

理由

一、《証拠省略》によれば次の事実が認められる。

(一)  昭和五一年六月中旬ころ、甲野教諭の担任する京都市立山科中学校三年二組の学級委員会で、生徒から夏休み中に学級ピクニックをする要望が出された。次いで七月の期末テスト後、男子学級委員から同月一日から一四日まで同中学校に来ていた教育実習生の乙山一郎とその友人の丙川二郎が付き添ってくれるので、近江舞子でキャンプをしたい旨の要望が出された。そのため同教諭と生徒らとの間で話し合いが行われ、その結果近江舞子で飯盒炊さんと水泳をすること、キャンプについては女子を含めてのものは許可せず、男子がどうしてもキャンプをやるのなら本計画と関係なしということで日帰りの計画が立てられた。尚引率者として教育実習生の丁原三郎が加わることになり引率者は計四名となった。

(二)  同月二〇日の一学期終了の日、右学級ピクニックの打合わせが行われ、男子生徒6名、女子生徒七名が参加することになり後のキヤャプのこともあって男子生徒は主として乙山ら教育実習生が担当し女子生徒は泳力も少いので甲野教諭が担当することになった。

(三)  参加者の泳力は、甲野教諭約五〇〇メートル、乙山一、〇〇〇メートル以上、丙川五〇メートル以上、丁原約二〇〇メートル、男子生徒は全員五〇メートル以上であった。全員健康であった。匡司は身長一八〇センチメートル、体重六五キロあり大人並の体格であった。

(四)  甲野教諭はこれまで再々近江舞子で泳いだことがあり、乙山も四、五回泳いだ経験があって大体の様子はわかっており、当初予定していた事前現地調査は結局しなかった。

(五)  同月二〇日、本件水泳行事に関して同教諭は京都市教育委員会に提出する生徒校外指導届を作成し、これを田中校長のもとに持参してその記載について指導を受けるとともに本件行事の許可を得た。

(六)  当日に予定された日程は次のとおりである。

九時過ぎ      現地到着

九時四〇分~一一時 水泳及び休憩

一一時~一時    飯盒炊さん、食事、遊び

一時~三時     周辺散策、新しい意味のあることを発見してその結果を持ちより話し合う、担任教生の生い立ち等を聞いて自己やクラスを考える。

三時~四時半    水泳及び休憩

四時半~五時半   二学期の学級運営その他を話し合う

六時前后発の列車で帰着

(七)  同月二九日午前九時過ぎ甲野教諭と女子生徒六名(予定より一名欠席)が近江舞子浜に到着し、水遊びやボート遊びをしていたところへ、午前一〇時過ぎに男子生徒五名(予定より一名欠席)と教育実習生乙山一郎、丙川二郎が到着した。教育実習生丁原は午後から参加することになった。

午前一一時過ぎ男子生徒全員と丙川が水着になって湖岸に出たので、甲野教諭は準備運動をすること、昼食前だから長く泳がないこと等の注意をした。尚同教諭は乙山、丙川らと生徒の監視等について役割の分担など特に打合せはしなかった。

(八)  男子生徒五名及び丙川が湖岸から約五〇メートル付近にある水泳区域を表示するブイの内側一〇メートル付近のところで、持参したゴムボート二個を浮かべて泳いでいたところ、ビーチボールが風で湖岸の方に流されたので匡司と生徒の高井累が追いかけたが、匡司の方が速く泳いだので高井はビーチボールを匡司にまかせゴムボートの方に帰った。その直後である午前一一時二二分ころ、岸から一五~二〇メートルの地点で匡司は両足にこむら返りを起こし両手を挙げて頭まで水につかる格好になったので、近くで泳いでいた遊泳客の村瀬某が不審に思い、匡司の腕をつかんだところ一・五メートル程水中に引き込まれたため村瀬は苦しくなって一旦手を離し、水面で息をついてからもう一度潜ったが匡司の姿は既に見えなくなりそのまま水没して溺死した。肺の中に水が入っていたことから見て水による窒息死とみられた。後に村瀬は「自分にもっと泳ぎに自信があったらよかったのに」と残念がっていた。

(九)  匡司が溺れた当時甲野教諭は女子生徒より飯盒の水加減を見てくれるよう頼まれたのに応じて水場に行きそこで写真を撮影していた。丙川は生徒らから離れゴムボートの所から岸へ泳ぎ着いたばかりであって何が何だかわからなかった。乙山は丙川が岸に向かって泳ぐのを見て、丙川に代わって自分が泳ごうと服を脱いだが、女子生徒から飯盒炊さんのためのブロック積みのかまどを見てくれと頼まれてブロックを直していたところであった。このように事故は丙川が生徒らから離れた僅か後に生じたのであった。

(一〇)  「溺れているぞー」という声で甲野教諭は男子生徒を全員岸に上げたが匡司の姿は見当らなかった。周囲の人に聞くと溺れた人は大人らしいとのことであり、また高井は「匡司は岸の方に向かった」と言ったので便所や岸辺を捜索した。

溺れた地点では付近にいた二、三の人が代わる代わるもぐって捜し、午前一一時三〇分ころにはロープが持ち込まれ円形になって一斉に潜って水底の捜索が行われたが匡司を発見できなかった。

甲野教諭も潜って捜そうとしたが水深が六メートルもあると言われ引き止められた。

一二時三〇分ころ水底捜索船が来て二時間余り水底を捜索したが発見できず、午後三時ころになって同教諭らの要請でアクアラングの装備をしたダイビングクラブの人五名が到着し、午後三時二〇分ころその人達によって匡司の遺体が引き揚げられた。

(一一)  本件事故のあった近江舞子水泳場は滋賀県志賀町南小松二七の三から同所一〇八八の一までの湖岸約五〇〇メートルに及ぶ古くから有名な水泳場で、大正五年ボーイスカウトのキャンプが日本で初めて設営され昭和六年水泳場が国の天然記念物に指定された(戦後解除)。

昭和三六年制定された滋賀県琵琶湖事故防止条例は、水泳のための施設を設けて人に利用させようとする者に対し、公安委員会に届出義務を課すとともに種々の事故防止措置を定めており、右条例に基づき近江舞子の民宿業者の代表が毎年開設届を提出し、また同水泳場では事故防止のため次の措置がとられていた。

(イ)  沖合三〇~五〇メートルのところに赤いブイを設置してモーターボート等の侵入を防止するとともに遊泳区域を表示している。

(ロ)  泳ぐ前には準備運動をすることなど約八項目の遊泳上の注意事項の掲示板を設置している。

(ハ)  右注意事項を放送するスピーカーを設置している。

(ニ)  監視船一隻の巡回

(ホ)  三人の警備員による湖岸およびキャンプ場のパトロールや救助活動

(一二)  琵琶湖全体と近江舞子水泳場との各遊泳客数及び遊泳中水死者の数を年次別に見ると次のとおりである。

昭和

琵琶湖全体

近江舞子

(年)

遊泳客数

水死者数

遊泳客数

(パーセント)

水死者数

(パーセント)

50

一〇三万四、八〇〇

二四

二六万九、五〇〇

(二六%)

(三三・三%)

51

一一一万五、〇〇〇

二一

三二万一、一〇〇

(二八・八%)

一一

(五二・四%)

52

一四三万二〇〇

一〇

四七万六、六〇〇

(三三・三%)

(四〇%)

(一三)  近江舞子水泳場は地下水の湧出のため水面下に水温の低いところがあり、このことと当時の身体的条件から匡司は脚に痙攣を起こしたと推測される。また同水泳場は湖岸から約一〇メートル付近で急に深くなっており、以前より水は濁っていた。

以上の事実が認められる。

二、右認定事実に基づき甲野教諭らの責任を検討することとする。

(一)  本件行事の性格について

本件行事は山科中学校三年二組の生徒から出された夏休み中の学級ピクニックの要望に基づくもので、自発的に参加した男女合計一一名の生徒による少人数の行事であり、その目的とするところは野外で共に飯盒炊さんや水泳などをすることにより担任教諭及び教育実習生と生徒間、及び生徒相互間の親睦を深め、自然の中で散策しながら教諭らと親しく接しその生い立ちを聞くなどして生徒各自の生き方やクラス運営を話し合い教室の授業とは異なった教育効果を上げることにあったとみられる。したがって通常学校全体あるいは学年単位で行われる大規模な臨海学校の如く、生徒の参加が強制的であり数泊の宿泊によって集団生活に慣れさせることの他水泳訓練を行って生徒の泳力や体力を向上させることが主要な目的である行事とは性格が異なるといわなければならない。すなわち本件行事は担任及び生徒間の親睦が主目的であり、水泳は戸外における親睦のためのリクレーションの一環に過ぎず、本件行事に参加した男子生徒は全員五〇メートル以上の泳力をもち、現に岸から数十メートル離れた背の立たない地点で遊泳していたものであって全員水泳には自信を持っていたと考えられる。

(二)  近江舞子の選定、事前調査、引率者の数及び質、監視救助体制等の本件行事の企画段階における過失について。

前記のように近江舞子浜は古くから開けた有名水泳場で長年水泳客に利用されてきており、最近でも毎年数十万人もの遊泳客が訪れていること、滋賀県の条例に基づき開設届がなされ種々の事故防止策がとられていたことからすれば、同水泳場の水が混濁し湖岸から一〇メートルで急に深くなっていることを考慮しても同水泳場が中学生の遊泳には危険であり学級ピクニックの場所として不適であるとはいえない。水深が急に深くなっても本件行事に参加した男子生徒の如く背の立たない場所で泳ぐ者にとっては影響はなく、また水底に沈んだ者の発見及び救助が困難という理由で水の濁り、水深の深さをもって危険な水泳場ということは無理である。

なるほど同水泳場の琵琶湖全体に対する水死者の割合は遊泳客の割合に比して若干高いが、これは他の琵琶湖の水泳場に限って比較した相対的なものであり、数十万人の遊泳客に対し数人から一一人の水死者があるからといって同水泳場を危険な欠陥のある水泳場であるということは困難である。全国各地にある有名な水泳場でも毎年某かの溺死者が出ていることは公知の事実である。

したがって甲野教諭が同水泳場を選んだこと自体誤りがあったということはできず、また同水泳場が旧来から有名であり同教諭自身何回も行って様子を知っていること、本件行事が水泳訓練を目的とせず少人数による親睦が目的であることに照らせば、事前調査をしなかったことも責められるべきではない。

更に本件行事の前記性格、参加生徒の数(一一名)、その泳力からみて学級の担任である同教諭(泳力五〇〇メートル)の他に溺れた者がでた時に備えて水泳能力及び潜水能力の秀れた(本件で匡司を救助するためには六メートルの潜水能力が必要である)教員を引率者に加えたうえ救助用具を持参すべき義務があったということも相当でない。

本件では教育実習を修了しただけで教諭の資格のない乙山(泳力一、〇〇〇メートル以上)およびその友人の丙川が引率していたからこれらは正式の責任者とはいえないが、参加生徒が一一名であったこと、又教育実習生は将来教員になることを志望しているものであって進んで本件行事に参加したことからみると生徒の教育一般及び本件のような引率監督に対してはそれなりの意気込みと責任感を有していたとみられることなどからすれば、引率者の資格、泳力、数においても非難さるべき点はないといわねばならない。なお右引率者間の役割分担としては男子生徒を乙山らが女子生徒を甲野教諭がそれぞれ面倒を見るといった大雑把な決め方しかされていなかったが、本件行事の前記性格からみて右の程度でも差し支えはなかったものと考えられる。

以上みてきたところにより本件行事の企画段階においては同教諭に過失はなく、したがってこれに対し特に指導助言を与えず本件行事を許可した田中校長及び本件生徒校外指導届を受理した京都市教育委員会の各措置にも過失があるということはできない。

(三)  甲野教諭の生徒監視義務及び救助義務違反について

一般に水泳は種々の外部的条件(水温水流等)及び泳者の肉体的条件によっては溺死の危険があるのであるから、近江舞子浜に生徒を引率してきた甲野教諭としては本件行事の性格が前示のものであったとしても生徒が泳いでいる間は責任者として自ら監視してその動静に注意し自己が監視しない時は乙山らに十分監視させて事態の変化に即応しうる態勢を整えておくべき義務及び生徒が溺れた際には直ちに救助活動ができる態勢をとる義務があったといわねばならないところ、本件では同教諭は男子生徒に泳ぐ前に準備運動等をすることの指示を与えたにとどまり匡司が溺れた時には女子生徒の飯盒炊さんの手伝いをしていて湖面を見ておらず、甲野に代って男子生徒をみる役割を引受けていた乙山、丙川らも男子生徒から離れていてその監視を怠っていたため溺れた者が果たして井上匡司かどうかの確認に手間取り、当初は陸上を捜すという的はずれの行為をして匡司の救助活動に移らなかったので、同教諭にはこの点で監視義務違反及び救助義務違反の落ち度があったというべきである。

しかしながら、翻って考えるに匡司は前記認定のとおり救助を求めるために大声を出したり手足をバタつかぜるなどせず、頭を水につけ両手を上げてそのまま沈んでいったのであり、《証拠省略》によれば匡司は両足が痙攣を起こしたため精神的に手も動かなくなってそのまま水中に没したと推測されるというのであり、再び浮上した事実もないので痙攣を起こしてから水没までの時間はごく短かったと推認されるのであって、仮りに甲野教諭らの引率者が監視を充分にして匡司の痙攣を見つけたとしてもこうした集団指導の場では匡司につききりで監視するのではないから、匡司が水底に没する前にその地点に急行して水面上で匡司の体をつかまえ救助することは到底不可能であったと認められる。

《証拠省略》によれば人が溺れた場合呼吸停止から二、三分で心臓が止まりその後五分以内に心臓マッサージをすれば脳に障害を残すことなく一命をとりとめることができるが、右五分を超えた場合には仮に心臓マッサージにより血液の循環が再開しても脳の機能の停止により植物人間になること、本件では溺れてから死亡までの時間が一五分と推定されているので匡司を救命するには溺れてからおよそ一〇分程度の時間内に引揚げなければならなかったというべきところ、匡司が沈んだ地点は水深六メートルに達する場所で村瀬某が一旦水面に出て再び潜った時には匡司の姿が見えず、その後ロープなどが持ち込まれ何人も潜っては匡司を捜索していたが発見することができず、水中捜索船が二時間捜しても発見に至らずにアクアラングをつけたダイビングクラブの人達によって午後三時二〇分ころようやく引き揚げられたのであって、右の状況からすると甲野教諭らが監視を十分にし匡司が水没するのを目撃していたとしても一〇分前後の時間以内に水底に没した匡司を発見しこれを引き揚げ得た可能性は極めて薄かったといわねばならない。

かつ《証拠省略》によればアクアラング隊到着后は三ないし五分で匡司の遺体が探し出せたことが認められるので溺れた直後にアクアラング隊に救助を要請しすぐ救助に当れば一命を助けることはできたはずと考えられるがそれにしても一〇分や一五分以内にアクアラング隊が現場に来て救助できたとは到底考えられないのでアクアラング隊の故を以て匡司の一命を救い得たと考えることはできない。

また匡司が水没した地点は水深六メートルであるから《証拠省略》によって認められる同教諭の潜水能力一・三メートルからすれば同教諭自ら匡司を引き揚げることも不可能であったし、同教諭が自ら救助活動をしようとして引止められたことは前記認定のとおりである。

以上要するに甲野教諭には匡司の監視を怠り且つ速かに救助活動を行わなかった過失を否定することができないものの、仮りに監視を十分にしていたとしても匡司が痙攣を起こしてから水没するまでの状況、溺れた地点の水深、捜索救助手段などからみて所詮溺死は免れ得ず、右過失と匡司の溺死との間に因果関係はないと言わざるを得ない。

以上みてきたところにより、本件事故につき被告に責任を負わすことはできないといわねばならない。教員の付添いが有りながら、匡司が溺死したため、教員らの措置に不満を抱く原告らの心情は理解できなくはないが、本件は匡司がゴムボートのところにいた生徒の集団から離れた時に起きたこと、両足に同時に痙攣が起きたため自力で回復させたり救助を求める余裕もなく水没したとみられること、溺れた地点の水深が深く極めて救助活動が困難であったこと等の不運が重なったための事故といえるので被告に責任を認めることは相当でない。

よって爾余の点について判断するまでもなく原告らの本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 菊地博 裁判官 川鍋正隆 天野実)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例